1945年の愛媛県の松山空襲で命を奪われた市民の生きた証しを刻もうと、犠牲者数を検証している松山市戦災遺族会は、毎年夏に市主催の平和資料展で公開している死没者名簿を、今夏から氏名や死亡年月日が未確定の事例も含める公開方法に改めた。これまでは複数史料などで確認した場合に限り氏名を公開してきたが、9年目を迎えた作業が高齢化などで次第に困難さを増したためだ。記載数は昨夏より175人増え、525人となった。 県史(88年発行)などによると、市内の空襲は45年には約20回あったとされる。特に7月26日夜~27日の被害は甚大で「松山大空襲」とも呼ばれ、市誌(62年発行)は「死者251人、行方不明8人」と記録している。 関係自治体が名を連ねる団体が全国の犠牲者数を刻んだ空爆死没者慰霊塔(56年建立、兵庫県姫路市)では、松山の犠牲者は26日以降で「411人」となっている。
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