日本統治下の台湾で監督として嘉義農林学校(現国立嘉義大)野球部を率い、戦前の1931年夏の甲子園で準優勝に導いた愛媛県松山市出身の近藤兵太郎さん(1888~1966年)の顕彰碑の除幕式が6日、松山市市坪西町の松山中央公園であった。台湾から訪れた嘉農OBら関係者が野球を通じて台日を結んだ功績に思いをはせた。 近藤さんは県立松山商業学校(現松山商業高)で選手や監督をした後、嘉農監督に就任。台湾先住民や漢民族、日本人で構成するチームを率いた。戦後は新田高(松山市)監督などを務めた。今年、嘉農の活躍を描いた台湾映画「KANO」が公開され、再評価の機運が高まった。 顕彰碑は高さ2.2メートルで、近藤さん直筆の「球は霊(たま)なり」を拡大転写したデザイン。「近藤兵太郎をたたえる会」実行委員会(林司朗委員長)が、坊っちゃんスタジアムの入り口近くに建立した。
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